本 ·
資本主義リアリズムと世界史の構造

人類に未来がなくても、チェーンのコーヒー店は営業を続ける。フィッシャーは資本主義リアリズムで、映画Children of Menに収容所とチェーンのコーヒー店が共存していることを指摘する。子どもが生まれなくなった世界でも、資本主義まで終わるとは限らない。人類の存続と店の存続は別件だ。
フィッシャーのいう資本主義リアリズムは、資本主義をよいものだと信じる気持ちよりしぶとい。ひどい仕組みだと思っていても、別の仕組みを想像するのは難しい。資本主義の支持者だけが出勤するなら、オフィスは今より空いているはずだ。会社の悪口を言いながら会社へ行き、仕事で傷んだ心身を立て直すために給料を使う。労働条件はなかなか変わらないのに、回復には真面目に取り組まなければならない。休むにも、ずいぶんやることがある。
ただ、フィッシャーの診断にも問いを返したい。資本主義が反抗を商品に変え、未来まで占領しているなら、どこから始めればいいのか。あらゆる抵抗が吸収されるという説明は、体制を批判するのにも、抵抗を思いとどまらせるのにも使える。批評書を読んだあと、資本主義の商売のうまさに感心していたら、その読み方はどこかおかしい。

柄谷行人の世界史の構造を一緒に読むと、資本主義を支えるほかの力が見えてくる。柄谷によれば、資本とネーションと国家は互いを補う。市場が不平等を生むと、ネーションは共同性と平等を求め、国家は再分配と規制で応じる。これらの措置は実際に暮らしを支える。しかし、市場がもたらした被害を国家が埋め合わせる間も、資本との結びつきは維持されうる。救済を受ける権利は必要だ。なぜ何度も救済が必要になるのかも問わなければならない。
柄谷は、自由と互酬性を両立させる交換様式Dに、この結びつきを超える可能性を見る。アルファベットが一つ付くと、ひとまず整理がついた気になる。けれど、まだ誰もそこへ引っ越したわけではない。Dを現実にする人や組織や力はどこにあるのか。フィッシャーの診断を諦めの材料として消費せず、柄谷の代案を図式のまま飾らないためには、ここまで問いたい。誰がこの結びつきを断ち切れるのか。その過程で生活の糧を失う人たちは、どうすれば一緒に持ちこたえられるのか。